<妊娠から出産まで> 平成9年12月から平成10年8月

 妊娠に気がついたのはH9年12月のことだった。
正直に言うと全く予定外のことで嬉しいというより戸惑いが先にあった。なぜなら長女の育児からようやく開放されこれから自分のダンスに時間をかけたいと思っていたから。
特にこの年は来年の競技会にむけて闘志を燃やしているところだった。
けれど私の中に「産まない」という選択肢はなく今は子供を産めと神様がいっているんだなぁなんて思ったりしたのを覚えている。
 二人目ということもあって特になんの注意もない妊娠生活だった。どちらかというと無謀な妊婦だったかも知れない。生徒さんのレッスンは9ヶ月までしていたし、マタニティービクスにも週3回通っていた。
流産、死産、未熟児、帝王切開などまるで自分とは無縁の事だと信じていたし、まして奇形など恐れはあったにしても自分には関係ないと思っていた。

 陣痛を感じたのは8月2日、10分おきに鈍い痛みがやってくる。なかなか間隔が規則的にならず産院に行っても帰されてしまった。
 3日の日も同じ、経産婦ということであせる私を先生は「5分おきに規則的に陣痛がくるようになったらきてください。」と言ってまた帰した。
結局3日の日の夜9時陣痛は5分おきになりもう我慢ができないぞと思いながら産院に電話。
「入院の用意をしてきてください。」ああーやっと産めるんだってホッとした。(笑)
夜の10時に入院して明けて1時47分に産まれるという大安産だった。
 こうして感動のご対面になるのだが助産婦さんがつれてきたのはまさしくこぶただった。
ちなみに5年前にもおんなじこぶたを産んでいる・・また同じか・・。(笑)
でもざっと全体をみて五体満足なことを確認し「ま、いっかブスでも」なんて。
その時はまさか不満足な奇形児だったとは夢にも思っていない。
分娩室で2時間ほど一緒に過ごしその後朝までこぶたは新生児室に預けられた。

 私の選んだ産院は今流行りのブランド出産ていうの?それに近い産院だった。
最後のお産を優雅にきめたかったからである。
ただ母乳主義の完全母児同室で入院中の5日間ほとんど満足に眠れなかった。

こぶたは悠夏と名付けられた。